犬用狂犬病ワクチンの歴史

一方、犬用の狂犬病ワクチンの歴史は、1912年にFerranが新鮮固定毒を犬に大量接種しても発症せず免疫を与えることを報告したことから始まりました⁴⁾。今から考えると無謀にも思える方法でしたが、新鮮固定毒を犬に接種して完全な免疫を賦与するとの報告が続きました。その後、1932年にJonnescoは狂犬病に感染したオオカミの脳を犬の脳に連続継代して固定毒を得て、固定毒乳剤に石炭酸を1%加えたものをワクチンとして犬に40ml注射して良好な免疫効果を示したことが報告されました。日本では1915年に押田らが固定毒感染ウサギ脳脊髄乳剤を0.5%石炭酸グリセリン液で4倍希釈して冷蔵庫内で1~1.5カ月感作し、使用時に5倍希釈したものをワクチンとして、犬に10~15回皮下注射する方法を最初に報告しました⁵⁾。

この方法は有効であったものの、頻回接種を要することで作業が煩雑であり普及しなかったようです。この欠点を改良するため、1918年に梅野らは0.5%石炭酸グリセリン液で感作し、5倍希釈した固定毒感染ウサギ脳乳剤を3~6ml犬に1回皮下注射する方法を報告しました⁶⁾。注射に伴う作業を大幅に省力化した梅野ワクチンは、野外での大規模な試験により有効性と安全性が確認されました。1921年には近藤らが0.5%石炭酸グリセリン液で感作し5倍希釈した固定毒感染犬脳脊髄乳剤を5~10ml犬に1回皮下注射することで、6~101日後の攻撃に耐えることを明らかにしました⁷⁾。1回だけ犬に注射する梅野ワクチンや近藤ワクチンは日本の狂犬病撲滅に多大な貢献をしたのみならず、「日本法」として諸外国にも普及することになりました。1929年には動物用狂犬病ワクチンの製造所は26カ所あり、1928年の年間製造量は712,345mlであったとのことでした。さらに1951年の統計を見ると、年間製造量は9,494,540mlであり1頭当たり6ml注射したとしたら158万頭分となり飛躍的に注射頭数が伸びています。


1951年以降は現行のワクチンに繋がる様々な改良が行われています(表1)。まず狂犬病固定毒を山羊の脳内に接種して、感染極期に脳を採材して10~20%乳剤にし、石炭酸、チメロサールあるいはホルマリンの添加、または紫外線照射により、ウイルスを完全に不活化したセンプル型ワクチンが開発され使用されています。1950年に狂犬病予防法が制定され、本不活化ワクチンの犬への注射が義務化されることにより、1957年以降は犬も人も狂犬病に罹ることがなくなり、世界にも希な狂犬病の無い国になりました(図2)


▲図2:日本における狂犬病の発生状況


このような公衆衛生上の金字塔を打ち立てた半面、ワクチン接種に伴う副反応いわゆる接種後麻痺に悩むことになりました。副反応を起こした犬の脳組織像は狂犬病脳脊髄炎とは異なっており、急性播種性脱髄性脳脊髄炎と診断されています⁸⁾。接種後麻痺の原因物質はHemachudhaらによってワクチンの主成分である脳組織に含まれるミエリン塩基性タンパクであることが明らかにされました⁹⁾。

より安全な狂犬病ワクチンの開発が進められ、1978年から固定毒感染山羊やマウスの脳乳剤をカルボキシメチルセルロースまたはマクロゴールで精製し、タンパク窒素量を10分の1以下(200μg/ml)に減少させた狂犬病精製不活化ワクチンが市販されました。注射量は犬の体重に係わらず1頭当たり2mlとなりました。

免疫持続期間が6カ月であったため年2回の注射が必要でした。さらに安全で免疫持続が長いワクチンの開発が求められ、1984年から脳組織が含まない組織培養不活化ワクチンが開発され、現在も使用しています。このワクチンはタンパク窒素量が100μg/ml以下とさらに少なくなり、注射量も1mlで免疫持続期間も1年間に伸びました。そこで狂犬予防法の改正が行われ、年1回のワクチン注射になり現在に至っています。なお、本ワクチンは猫での安全性や有効性も確認されています。

以上述べましたように、現在使用する動物用狂犬病組織培養不活化ワクチンに至るまでには様々な歴史があることがお判りいただけたと思います(表1)。まさに安全性追求の歴史でもあります。Pasteurが開発したワクチンに遅れること数年で、留学経験もなく簡単な記載の論文を頼りに試行錯誤を繰り返してワクチンを開発した後、減毒ワクチン、センプル型ワクチン、精製不活化ワクチンを経て、現在の組織培養不活化ワクチンにたどり着いた変遷は壮大な歴史小説を読むような感動を与えてくれます。このような歴史の上に立ち、現在の世界的にも安全性に優れたワクチンを我々に提供してくれていることも忘れてはならないと思います。このような狂犬病ワクチンがあったため、法律に基づいて飼育する犬全てにワクチン注射が義務化され、世界に冠たる狂犬病の無い国になったのです。しかし、安全性に優れた現行ワクチンでもどうしても極少数ながらアナフィラキシーなどの副反応を避けることができないため、先端的な技術を駆使したさらに安全性の高い狂犬病ワクチンの開発が望まれます。



1)Yoshida M, Mizukami K, Hisasue M, et al.: Anaphylaxis after rabies vaccination for dogs in Japan, J Vet Med Sci 83:1202-1205, 2021.
2)平山紀夫:日本の狂犬病ワクチンとその製造株について.日本獣医史学雑誌 59:21-37,2022.
3)栗本東明:狂犬病毒動物試験及人體注射治療試験.官報 3636号:116-118,1895.
4)添川正夫:家畜の狂犬病.日本獣医師会誌 5:277-281,1952.
5)押田徳郎,陶山嬌:濃厚固定毒乳剤を以ってする家畜に對する狂犬病豫防接種法.中央獣醫学會誌 28:528-541,642-657,1915.
6)梅野新吉,土井良照:犬體狂犬病豫防接種法研究(第2回報告).細菌學雑誌 274:510-516, 1918.
7)近藤正一,大橋正之助:狂犬病豫防接種ニ關スル試験(第3回報告)實用的廉價ナル豫防液ニ就いて.獸疫調査所研究報告 4:29-46, 1921.
8)添川正夫,田島正典:第2章狂犬病ウイルス.獣医微生物学 平戸勝七編 p.551-561養賢堂出版(東京)1971年.
9)Hemachudha T,Griffin DE, Giffels JJ, et al.: Myelin basic protein as an encephalitogen in encephalomyelitis and polyneuritis following rabies vaccination. N Engl J Med 316:369-374, 1987.


田村 豊 Yutaka Tamura

酪農学園大学名誉教授

1974年 酪農学園大学酪農学部獣医学科卒業
1974年 農林水産省動物医薬品検査所入所
1999年 動物分野の薬剤耐性モニタリング体制(JVARM)の設立
2000年 検査第二部長
2004年 酪農学園大学獣医学部獣医公衆衛生学教室教授
2020年 定年退職(名誉教授)

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