私たちが悲しみを感じるとき、涙が流れ、胸が締めつけられ、先行きに希望が持てなくなり、気分が暗くなります。このように喜怒哀楽などの情動(感情)は、身体の反応と心の変化が複雑に絡みあって生じます。ヒトを対象とした研究では、情動にかかわる身体反応と認知的な変化(考え方や判断の変化など)が互いに影響しあうことが示されています。しかし、ヒト以外の動物における情動的な身体反応と認知的変化との関係はほとんど調べられていませんでした。
京都大学ヒト行動進化研究センター 壹岐朔巳 特定研究員、足立幾磨 同准教授の研究チームは、同センターで飼育されている6頭のニホンザルを対象に、ネガティブな情動と関連する「セルフスクラッチ」(自分の体を掻く行動)と、「悲観的な判断バイアス」(結果が不確かなときに悪い結果を予想してしまう傾向)の関係を調べました。その結果、ニホンザルはセルフスクラッチをした直後に悲観的な判断を下すことが多い一方、悲観的な判断を下したからといって直後にセルフスクラッチをするわけではないことがわかりました。これは、ニホンザルにおいても、情動にかかわる身体反応が認知的な変化に先行する可能性を示唆するものです。他方で、ヒトでは認められている「認知的な変化→身体的な反応」という方向の影響関係は、今回のニホンザルの実験では示されませんでした。今回の結果は、ヒトとサルの情動メカニズムに「共通する部分」と「異なる部分」の両面が存在する可能性を示唆しています。今後の研究によって、ヒトが持つ情動のしくみの進化的起源について、さらに多くのことが明らかになると期待できます。
本研究成果は、2025年2月5日に英国の国際学術誌「Proceedings of the Royal Society B: BiologicalSciences」にオンライン掲載されました。

ニュース概要

1.背景
19世紀末から20世紀初頭に活躍した哲学者・心理学者のウィリアム・ジェームズは「私たちは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という趣旨の言葉を残しています。この言葉は、情動的な身体反応(泣くという行動)が、認知的な変化(悲しさの経験)に先行し、影響しているという主張として理解することができます。後の研究により、実際には身体反応と認知的な変化が双方向に影響しあうことが明らかになっていますが、ヒト以外の動物にも同じような仕組みがあるかどうかは、十分にわかっていませんでした。

2.研究手法・成果
本研究チームは、ヒト行動進化研究センターで飼育されている6頭のニホンザルを対象に情動的な身体反応と認知的な変化の関係を調べる実験を行いました。とはいえ、ニホンザルは、ネガティブな情動を経験しているときに涙を流して声をあげて泣きませんし、ましてや「私は悲しいのだ」と自分の心の状態を言葉で伝えることもしません。そこで、苛立ちや不安などのネガティブな情動と関連する状況で増加する身体反応である「セルフスクラッチ」と、結果が不確かな時に悪い結果を予想する認知的傾向である「悲観的な判断バイアス」の2つに注目しました。
まず実験の訓練セッションでは、タッチパネルに白と黒のボタンがランダムな順番で表示されました。ニホンザルはそれらのボタンのうち、タッチするとエサ報酬がもらえる「報酬ありボタン」だけに触れ、タッチすると次の試行までの待機時間が延びてしまう「報酬なしボタン」には触れずにいるよう学習しました。訓練の完了後に行ったテストセッションでは、白と黒のボタンを区別する試行の繰り返しのなかに、灰色の「あいまいボタン」を表示する試行をさしはさみました。もしサルが悲観的な判断バイアスを持っていれば、この「あいまいボタン」を「報酬ありボタン」と判断することをためらうはずです。そのため、あいまいボタンに対する反応率や反応にかかる時間を測定することで、サルの悲観度合いを推定できると考えました。研究チームは、実験中のサルの様子をビデオ撮影し、セルフスクラッチが行われたタイミングと、あいまいボタンへの反応データ(反応率・反応時間)を照らしあわせて分析しました。
分析の結果、ニホンザルはセルフスクラッチをした直後に悲観的な判断を下す傾向が高くなることがわかりました。一方、悲観的な判断を下したからといって、直後にセルフスクラッチをするわけではないこともわかりました。この結果は、情動的な身体反応が認知的な変化に先行するメカニズムが、ヒトだけでなくサルにも存在する可能性を示唆しています。「まず素早い身体反応で自分の置かれた状況に対処し、その後、じっくりと判断をともなう認知的処理を行う」という対処戦略は、野生環境のさまざまな問題に素早く対応するために有利だったと考えられます。そのため、こうしたメカニズムは、ヒトとニホンザルが約3000万年前に分岐する以前から存在していた、進化的に広く保存された機構である可能性があります。
一方で、ヒトでは認められている「認知的な変化→身体的な反応」という方向の影響関係は、今回のニホンザルの実験では示されませんでした。この方向での影響関係は、ヒト特有の情動的・認知的メカニズムが新たに進化したことで生じたものかもしれませんし、今回の実験で扱わなかった別の身体反応や認知的変化に注目すれば、サルでも同じような現象が見られる可能性もあります。この点は、今後の研究を通して明らかにしていく必要があります。

3.波及効果、今後の予定
本研究は、情動にともなう身体反応と認知的変化との関係を、ヒト以外の動物で統制された実験を通じて検証した初めての試みです。今回の結果は、ヒトとサルの情動メカニズムに「共通する部分」と「異なる部分」の両面が存在する可能性を示しています。今後、ヒト以外の霊長類をはじめ、他の動物を対象にした研究を発展させることで、私たちの生活を彩る情動のしくみの進化的起源や人間性の理解に大きく貢献できると期待しています。

4.研究プロジェクトについて
本研究は日本学術振興会の助成(JP19K12730、JP22KJ1783、JP23K17642)を受けて実施されました。

<研究者のコメント>
「判断のバイアスを調べる実験手法は、言葉をもたない動物が心に抱いている情動を推定する手段として近年発達してきました。本研究では、ネガティブな情動を調べるためにこの手法を使いました。今後はポジティヴな情動にも焦点をあて、どのような条件や刺激がそのような情動を喚起するか調べることで飼育動物の福祉を評価する研究にも取り組みたいと考えています」(壹岐朔巳)

<論文タイトルと著者>
タイトル
Affective bodily responses in monkeys predict subsequent pessimism, but not vice versa
(サルの情動的な身体反応は、そのすぐ後の悲観的判断を予測するが、その逆の予測は成り立たない)
著者
Sakumi Iki and Ikuma Adachi
壹岐朔巳(京都大学ヒト行動進化研究センター)
足立幾磨(京都大学ヒト行動進化研究センター)
掲載誌
Proceedings of the Royal Society B: Biological Sciences
DOI
10.1098/rspb.2024.2549


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