生物兵器の歴史

ヒトに害を及ぼす病原体(ウイルスや細菌や真菌など)やその産生する毒素などを「生物剤(biological agent)」と呼んでいます。また、生物剤をヒトや動物に対して使われる兵器を「生物兵器(biological weapon)」と呼び、国家あるいは軍隊レベルで開発され用いられます。さらに戦闘行為の中で人間や動物や植物を殺したり無力化したりする目的で生物兵器を使用する行為を生物戦争と呼びます。一方、生物剤を意図的または脅迫的に散布することで、政治的・経済的・宗教的にパニックを引き起こすことをバイオテロリズム(バイオテロ)と呼び、その対象は特定の人物から不特定多数の人間に向けられることがあります。

時には人間ばかりでなく農作物や畜産物などが対象になることもあります。生物戦争は戦術・戦略行動の一つであり、組織的な準備が不可欠で戦闘員が無事であることが前提になります。一方、バイオテロは秘密裏に準備が進められ、テロリストが自爆することもある行為です。いずれも病原微生物やその産生する毒素を利用する点で共通しています。

生物兵器の歴史を振り返ってみると、14世紀に黒海の城壁都市Caffaは蒙古軍にペスト菌を使用したとの記録があります。18世紀になるとイギリス軍が先住民に対して天然痘ウイルスを使用しました。古代からバイオハザードとして取り扱いが難しい病原微生物を兵器として使用するとの発想はあったのです。近代では生物兵器の開発に日本が極めて重要な役割を果たしたことが知られています。それは第二次世界大戦中に旧日本軍が生物兵器を精力的に開発したことです。少し詳しく説明しますと、その中心になったのは731部隊といわれる大日本陸軍の関東軍防疫給水本部で、初代隊長の石井四郎陸軍軍医大佐(最終階級は陸軍軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれました。日本は日中戦争から太平洋戦争中に生物・化学兵器の研究を陸軍軍医学校で行っており、その下部組織として石井部隊があったのです。

当時の満州国哈爾浜市(ハルビン市)には生物兵器の実験・検証施設があり、3,000名以上の中国人やモンゴル人を用いて病原微生物を接種した人体実験が行われました。非人道的な人体実験は1933年にハルビン市郊外の背陰河にあった東郷部隊(または加茂部隊)で始められ、1938年に本格的な設備を備えた施設に移行しています。石井部隊では実験成果を公表できなかったのですが、大学では考えられない潤沢な研究費と近代的な実験施設が提供されるため、日本の医学系大学から多くの若い優秀な人材が参加しています。

先のコラムで紹介したナチスドイツの人体実験は1942年から1943年とされていることから、恥ずべきことに日本が世界に先駆けて非道な人体実験に手を染めたことになります。この実験には人獣共通感染症の病原体である炭疽菌やペスト菌などが用いられ、多くの医師とともに獣医師が深く関わったとされています。戦後ソ連が731部隊の関係者を裁いたハバロフスク裁判でも被告となった12名の中に、多くの軍医将校と共に2名の獣医将校が含まれています(日本軍による人体実験 (osaka-cu.ac.jp))。医師あるいは獣医師の根幹をなす倫理や任務をまとめたヒポクラテスの誓い(https://www.med.or.jp/doctor/rinri/i_rinri/a06.html)に関する教育が、日本では不十分であったと言わざるを得ません。実験成績をもとに作成された生物兵器は、1937年から1945年まで行われた日中戦争で実際に使用されました。731部隊の石井四郎部隊長を始めとする幹部は、戦後、責任逃れのために米国と司法取引を行い法廷で裁かれることを免除され、その代わりに戦略上重要な多くの実験データは米国に渡ったとされます。これが後に米国の生物兵器の開発に大いに利用されたそうです。司法取引した731部隊の医学・獣医学研究者は戦後大学などに戻り、大学教授や学会の重鎮になった方も多くいます(http://eritokyo.jp/independent/aoyama-731orgf2.htm)。